なんで山に登るんだろう

 『なんで山に登るのか?』時々、その理由を考えてみます。
 健康増進のため? 確かに健康増進と体調確認もあります。脂肪肝の私は、少し肝臓が弱まると、とたんに全てのやる気が失せてしまい、非常に強い倦怠感に襲われます。それで、山に登る気力があれば、肝臓の調子も良好であろうと分かるわけです。1996年頃からは健康増進も兼ねて福岡周辺の低山を暇があれば、一人で登っていました。山と渓谷社の分県登山ガイド『福岡県の山』を全部登ったのもこの頃です。
 それでは、健康増進だけで山に登っているのかと言うと、それ以前から、20歳の頃からふらりと低い山に登っていました。最初に買った山の本は、昭和50年版アルパインガイド『九州の山』(山と渓谷社)と横山厚夫著『登山読本』(山と渓谷社)でした。当時は、3畳一間の間借りに住む貧乏学生でしたので遠方まで足を伸ばすことなど無理な話で近くの山に時々登るか、本を読んで「いつかこの山にも登ってみたい」と想像をめぐらせる毎日でした。当時、アルパインガイド『九州の山』の記述で特に興味を持った山は、祖母・傾と市房山、そして屋久島でした。祖母・傾の関連記事としては、「祖母の珍魚イワメ」で大分県の天然記念物の話が載っていました。その当時既に激減しているようでしたが、現在はどうなったのでしょう? とにかく、僻地と言われるような土地とそこでの人々の生活に興味を持っていました。僻地と言えば、平家の落人伝説の本もよく読みました。

 それでは、なぜ、僻地に興味が湧いたのか? 私が生まれた土地が、結構な田舎だったからかもしれません。田舎で生活していた3歳当時の記憶をよみがえらせたいと思います。

 私は、昭和30年に島根県の山の中の田舎で生まれました。昭和34年1月には福岡に転出していますので、実際に生活したのは、3年と数ヶ月ですが、島根の情景は写真のように記憶に焼きついています。
 まず、家は茅葺で、山に挟まれた谷あいに建っていました。隣の家は、家の前を流れる川の向こうに1軒見えるだけでした。農家でしたので牛がおり、牛に鋤を引かせて田んぼを耕していました。一番印象に残っているのは、田植えが終わった後の田んぼに水が張られており、その透き通った水の底におたまじゃくし等の生き物がたくさんいたのをじっと見ていたことです。背負子と蓑があったので山に柴刈りに行っていたのでしょう。その当時、電気は来ていたようですが、まだ、ランプが有ってホヤをみがいていましたし、ちょうちんも使っていたようです。しいたけを収穫しに山に入って、のどが渇いた時、蕗の葉(蕗の葉だったことは最近親に聞きました)を折ってもらって沢の水を飲んでいたのを覚えています。

 便所は田舎ですから、母屋とは別に建っていました。便所の底には壷が置いてありました。独特の臭気がありましたが、特に臭くていやだと思ったことは有りませんでした。風呂も外にありました。五右衛門風呂で板の上に乗って入るもので、風呂に入るのが少し怖かったような記憶があります。
 母屋には土間があって、竈でご飯を炊いていました。火吹き竹もありました。囲炉裏があり、天井から自在鉤がぶら下がっていました。囲炉裏には、三脚がありました。時々、何かを焼いて食べていたかもしれません。
 不思議と人についての記憶は少なく、この自然環境とその中の生活についての記憶が強烈に残っています。しかし、この家も昭和36年頃でしょうか、ダム建設で壊され、現在は残っていません。

 私が生まれた家の周囲の山は、最近よく聞く「里山」の分類に入るのでしょう。柴を刈ったり、(聞いた話では)炭を焼いたり、生活と密着した山でした。私の山登りは、故郷の里山登りの延長かもしれません。静かに一人で自然の中に入っていくのです。 (2002年8月4日記)  

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